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巖谷國士 ★ 講演「ストラスブールと彫刻家ハンス/ジャン・アルプ」(ヨーロッパの都市と美術をめぐる3回シリーズ)

 

ストラスブールと彫刻家ハンス・アルプ……今回の★先生の講演も微に入り細に入り、とても密度の濃いものでした。台本なしのライヴの講演は思わぬ展開もあって、やはりすばらしい!

ここにご報告いたします。

 

ストラスブールという都市をもつアルザスとは、まるでひとつの国のようだ。しかし今まで独立した国家になったことはない(1918年に共和国として独立宣言をしたが、わずかに11日で終わる)。国家(state)と国(country)とは別であること、国家はしょっちゅう変化するが、国(くに)とはそういうものではない、生まれ育った国を愛することはあるが、国家とはそういうものではない、とお話は始まりました。

 

まずはストラスブール大聖堂の写真が映されます。大聖堂正面に向う細い道、その左手にはアルザスの伝統的な木組みが壁に見えるコロンバージュ(ハーフティンバー)の建物(明治学院大学にもコロンバージュ建築があります!)、右手には縦長の鎧戸付きの窓のある建物。

 

堂々たる大聖堂は赤茶色い石造りで、1157年から約250年間かけ建造されました。尖塔の高さはフランスでは一番高い142メートル、奥行110メートル。この辺りは運河も多く地盤が軟弱で、そのせいもあってか、塔は向かって左側だけ。大聖堂正面に向かう道が細いこともあり、縦に細長く天高く聳える大聖堂を見上げると圧倒されます。それ以前の教会はロマネスク建築(ローマ式)で、特徴としてはアーチ形を多用する、分厚い壁、小さな窓、壁画など(イタリアや南フランスでは光が強いので大丈夫!)。

 

ゴシック様式の教会は11世紀の北フランスで建築されはじめました。天井を交差で支えるリブ・ヴォールト、屋根の重さを壁ではなく柱で支え、高く建造することが可能になったため、間に多数の大きな窓が作られるようになり、13世紀にはそれを彩る色彩豊かなステンドグラスが生まれました。代表的なゴシック聖堂は、サン・ドニ、パリのノートルダム、ボーヴェ、アミアン、ランス、ルアン、ブールジュ(ロワール川沿い)、ケルン、ウル厶(南ドイツ、世界で一番高い、160メートル位)などがあります(概ね北に行くほど高くなる)。

 

ハンス・アルプはストラスブール大聖堂にほど近い魚市場通りで1886年に生まれました。当時ストラスブールのあるアルザス地方は1871年の普仏戦争の結果、ドイツ帝国の占領下にあり(ストラスブールはシュトラスブルクと呼ばれていました)、彼もドイツ式にハンスと名付けられました(のちにフランス式にジャンと名のる)。ドイツ人の父とアルザス人の母、地域の多様な文化の影響の元、幼年時代を過ごし、ドイツ語・フランス語・アルザス語を操るトリリンガルでした。アルザス地方は第一次大戦後、1919年にはフランス領に(アルプは1926年にはフランス国籍を取得)、1940年にはナチスがまたドイツ領としましたが、1944年以降はフランスに属します。

 

フランスとストラスブールの地図を見ながら……。フランスは日本の約1.5倍の面積をもち、ヨーロッパではロシア、ウクライナに次ぎ3番目の大きさ(海外領土も含む…マルティニーク、ポリネシア、グアドループ、ギアナ、レユニオン島など)。ストラスブールのあるアルザス地方はフランスの北東部にあり、東のライン川と西のヴォージュ山地に挟まれた平原地帯です。スイスと、ライン川(フランス語でラン川)沿いにドイツと、国境で接しています。スイス-アルプスから始まり、ドイツ・フランス国境線、ドイツ、そしてオランダから北海へと注ぐライン川、古来、その水運の中心地としてストラスブールは栄え、渡ってくる多様な文化の影響を受けてきました(縦に貫く勇壮な文化)。また、ストラスブールの語源シュトラスブルグは「道(シュトラス)の町(ブルグ)」という意味で、古くからの交通の要衝であったのを物語っています。

 

アルザス地方にはバ=ラン県(中心ストラスブール)とオ=ラン県(中心コルマール)がありますが(今の地方区分ではグランテスト地域圏)、鉄や石炭が豊富に産出されるため、ドイツもフランスも領有権が欲しく、何世紀にもわたり両国に代わる代わる統治されてきた歴史があります。アルザス地方の面積は8280平方キロメートルで、東京都・神奈川県・埼玉県を合わせた面積とほぼ同じです。

 

アルザス地方には元々ガリア人(ケルト人)が定住していました。民族的に見ればフランク族ではない人々。紀元前57年にはカエサル率いるローマ軍が侵攻し(『ガリア戦記』)、以降ローマ人も住むようになります(ライン川まで、その北はゲルマン人)。8世紀にはシャルルマーニュ(カール大帝)がフランク族の王、またローマ皇帝にもなり、フランク王国は広大な領域を支配するようになります(ベルギー、オランダ、オーストリア、ドイツの一部、スイス、北イタリアなど)。広大な領土を縦に3分割して相続領有することになった、孫にあたるロテーヌ(中フランク王国/ライン川西側、アルザスなど一部フランス、ベルギー、北イタリアなど)、ルイ(西フランク王国/その西、大部分のフランス)、シャルル(東フランク王国/ライン川東、大部分のドイツ)。分割をめぐって争いが生じ、長兄ロテーヌに対抗するためルイとシャルルは協力して、842年に「ストラスブール宣誓」を出します。これはフランク族の2つの言葉(フランス語とドイツ語)で書かれていて、フランス語の最古の文書だと言われています。843年にはヴェルダン条約が3人の間で交わされ、アルザスは中フランク王国に帰属することとなります。962年にはオットー1世が神聖ローマ帝国の皇帝となります。神聖ローマ帝国はひとつの民族のひとつの国ではなく、各地でその領主が国を治めましたが、やがて都市が発達、教会や領主からも自由な自由都市群が生まれ、自立してゆきます。アルザスもアルザス語を話す定住アレマン人がアルザス人となり、自由都市として発展してゆきます。

 

スライド写真を見ながらストラスブール大聖堂を詳細に見ていきます。外側は全体に縦に細長く高いという印象、西側正面(西は死者たちの国)のファサードや壁の繊細で美しいレース編みのような彫刻、バラ窓、窓の複雑な格子、ヴォージュ山地の赤い砂岩で造られた聖堂は、夕暮れには渋いピンク色に染まるそう。

 

つづいて内側から見るバラ窓。ステンドグラス。その光の色彩は聖堂によって印象が違う、と★先生。例えばシャルトルはブルー、パリのサント・シャペルは赤、ノートルダムは紫。ストラスブールは黄からオレンジで、太陽や黄金を連想させる。薄暗い内に入ると高さのある空間に柱や壁、窓の縦の線が上に伸びていてまるで樹々のようです。交差する線は枝の重なりのようで、森の中にいる感じになります。

 

森への信仰。ガリア人(ケルト人)の世界観を思わせます。彼等は神殿を持たず、森に聖なるものを感じていました。クリスマスツリー(ストラスブール発祥?)も木への信仰であり、同じように木を信仰する沖縄も連想されます。神々は森に居る、という感覚はゴシックにも通ずるもので、ゴシックとは元来「ゴート人の、ゴート的な」を意味する言葉、「野生」に近いとされていました。これは荒野で生まれたキリスト教、ローマ的、文明と対立するものです。

 

ここで、バロセロナも西からゴート人が入って来て、初めはゴート人の国だった、との指摘も。聖堂はまさに薄暗い野生の森の世界です。ゲーテは「石の建物の感じがしない。これは森だ」と言い、★先生も同じように植物の森の世界を感じたそうです。そして天文時計! 高さ18メートルはざっと4、5階建ての建物に相当します。彫刻、文字盤、毎日12時半から廻りだす自動人形たち、その13番目は骸骨頭の死者の像。子供の自動人形のカネを叩く音が森の鼓動のように響く。生きている森のような大聖堂。さて、アルプはどう感じていたのでしょうか。

 

アルプは詩の中でストラスブール大聖堂は燕だ、と記しました(一般にはストラスブールを象徴するのはコウノトリとされています)。生物、鳥として捉えたのです(「あなたは誰?」1904年、「大聖堂は心臓だ」1961年、共に高橋順子訳)。また、「Baggare de fruits 果実たちの大騒ぎ(果物たちの闘い)」(瀧口修造訳)には「四輪馬車の中で/死の頭蓋骨は何といふ格好であらう」という天文時計の骸骨を想起させる言葉があります。


1939年に第二次世界大戦勃発、この年に書かれたアルプのこの詩を瀧口修造は1940年に訳しています。まさに戦争の始まる重苦しい空気の中で、2人の詩人は共鳴します。戦火を避けるためヨーロッパ各地を転々とするアルプ。一方日本でも威圧的で不穏な空気のなか、瀧口修造も特高の監視下に置かれていて、翻訳にもできるだけ刺激的な言葉を使用しない工夫をしているのがみてとれる、と★先生。瀧口修造は、1941年春から同年末の真珠湾攻撃の直前まで7か月間も投獄されます。芸術の自由を追求したために……この閉塞した空気感は現在の日本にも通ずるのではないか……。そして、日本が真珠湾を攻撃し、時代は太平洋戦争へと突入してゆきます。

 

故郷が2つの国に翻弄されつづけたアルプ。美術を学ぶが、伝統的写実方法に失望し、新しい表現を模索し、ヨーロッパ各地を渡り歩きます。ドイツではヴァイマル、ケルン、ミュンヘン。チューリッヒで未来の妻となるゾフィー・トイバーに出会い、2人でダダ運動に参加します。

 

ゾフィーはテキスタイルデザイナーであり、画家、彫刻家、ダンサーでもありました。アルプにとってゾフィーはミューズというより、対等な同志といった関係で、やがてふたりは共同でも作品を作りました。

 

1926年、パリでシュルレアリスム運動に加わり、世界からやってきたシュルレアリスト達と交友し、影響を受けます。アルプ作品のシュルレアリスムとの共通点は「オブジェ」「オートマティスム」「偶然の法則」「ビオモルフィック」であり、そこはミロとも共通しています。

 

ビオモルフィックとは生命を持った形態という意味で具体的なもの。抽象ではない。抽象とは元々概念があってそれに形を与えたり、記号に置き換えたもの。抽象の反対が具体で、アルプは具体芸術(l’art  concret)を提唱します。1944年まさに第二次大戦真っ只中にアルプが書いた「具体芸術」という文章が紹介されましたが、もうすばらしいのでそのまま引用します。

 

「私たちは自然を模造したいとは思わない。

 私たちは再現したいのではなく、産みだしたい。

 木が果実を産むように産みだすことをのぞみ、再現することをのぞまない。

 この芸術のなかには抽象のかけらもないのだから、

 私たちはこれを具体芸術と名づける。

 具体芸術の作品にはもう作者の署名を必要としないだろう。

 これらの絵、これらの彫刻…これらのオブジェ…は、自然という大きなアトリエのなかで、雲、山、海、動物、人間がそうであるように、匿名であるべきだろう。

 そう! 人間は自然のなかにもどるべきなのだ。

 アーティストたちは、中世の芸術家たちがそうであったように、共同で仕事をすべきだろう。」(高橋順子訳)

 

大聖堂、アルザスの豊かな自然、ヴォージュ山地の岩のある自然から、アルプは学び、産みだすことをのぞんだのです。

 

★先生の実際に遭遇したエピソードから。

ある時ある人から「作者の内面がよく表れている」「この作品の意味は?」と尋ねられた★先生。何ということか! 作品とは主体や主観の外にあるもの(objet)であって、「人間の内面なんていうケチなものじゃない!」と(名言!)。作品の「作者はいない」「作者は匿名」とは、アルプの「匿名であるべきだろう」に通ずる言葉でしょう。「人間の本質的な営みを芸術はやる」のだと★先生。無名の人たちの寄進によって250年かけ建てられたストラスブール大聖堂のことも思い出されます。

 

1943年にゾフィー・トイバーはチューリッヒでストーブの一酸化炭素中毒で事故死します。この時パリはナチスが占領中。アルプは悲嘆で動けず、以後4年間修道院に籠もり、作品は作らず、文章を黙々と書いていました。「具体芸術」はアルプ58歳、ゾフィーの死の翌年に書かれたのでした。

 

すっかり長くなってしまったので、後半のスライド写真についてはざっと書きます。

 

ストラスブールの旧家、三角形の家(切妻屋根)、皮なめし職人のかわいい窓の家、鰐の看板のレストラン〜レストラン・ド・クロコディール(鰐という驚異!シュークルートが甘くて旨い、フォアグラ産地、世界最高の白ワイン産地)、アルザス焼きという陶器鍋(シュークルートはこれで煮る)、アルザスのお菓子の型(クグロフ用、お菓子も旨い、ピエール・エルメ、メゾン・ド・カイザー)、絵本(トミー・アンゲラーとか。ギュスターヴ・ドレもストラスブール出身)、旧市街のプティット・フランスの有名な家と運河(rue  des bain-aux-plantesという名前の通りがある、など → アルザス地方及び周辺は水、山、川、温泉が多い。コントレックス、ヴィッテルなどの水)、バラージュ・ヴォーバン(Barrage Vauban/ヴォーバンの建造した堰)から望む運河とボン−クヴェール(覆われた橋、もと屋根のあった橋)の風景、現代美術館、

 

ここからアルプ作品→アルプ自画像(11歳)、自画像(79歳)、テキスタイル(ゾフィーと共作)、容れ物(同上)、タピスリー「魔術師」と「魔女」(同上)、「オブジェ記号」(シュヴィッタースと共作→記号を言語のように使う)、「オブジェ記号/唇」(同上)、「オブジェ記号/ルーン文字」(同上)、「オブジェ記号/植物のシンメトリー」(同上)、ここからは彫刻作品→「鳥の骨格」(1947年作。ゾフィー亡き後の4年間を修道院で過ごしたアルプは、長年の友人であり後に再婚相手となるマルゲリーテ・ハーゲンバッハの支援のもと、制作を再開。この作品もその当時のもの)、「グノー」(地の精霊、軽やか大理石、アルプの木の実みたい)、「植物的建築」(レリーフ、大聖堂と通ずる)、「3つのつぼみ」赤い!、「果物の芯」、「三美神」ジェラルミン製、「ROSE EATER(薔薇喰い)」木の実みたい、「偶像」、「デメテール」、ストラスブールのユーロトラ厶、ユーロ本部(一部本部はブリュッセル、事務局はルクセンブルク)

 

ストラスブールは西→東、北→南、とアール・ヌーヴォーが伝播してゆく道の交差する点でした。バロセロナやブリュッセルともアール・ヌーヴォーで繋がっていたのですね!

 

また、ヨーロッパの文化・歴史の交差するストラスブールの町は現在の欧州議会(ユーロ)にとっても中心を担う重要な都市なのです。

 

最後に、講演の後で聞いたお話。まだ戦後の匂いが残る1954年のヴェネツィア・ビエンナーレ、ハンス・アルプは彫刻賞を取りました。大賞はマックス・エルンスト、絵画賞はジョアン・ミロ。それからはおそらく世間でも広く認知されるようになったのでしょうね。なんだか嬉しくなりました。

 

巖谷先生、ありがとうございました!

 

mk