· 

巖谷國士★講義 第7回「新★ぜみ」の報告

2020年の1月に第7回を数えた「新★ぜみ」ーー世界をながめれば、じつに不穏で窮屈で、明日なにが起きるか、どこでどうしているか……地球規模でひろがる大きな不安が、私たちの未来を覆い隠しているなか、★先生は「あえて『希望』について語ろうと思う」と、いつもおっしゃるように、今回も即興で、訳書『ナジャ』をひもときながら講義をはじめてくださいました。

 

アンドレ・ブルトンの著した『ナジャ』、その人は、いまでは本名(レオナ・ジスレーヌ)も出身(フランス北部の都市リール)も詳しく知られているものの、当時ブルトンが彼女に出くわしたときは、いかにも謎めいた、素性の知れない「未知の女」であり、ただし、向こうばかりは、「もっと前から、私を見てい」て、「事情はわかっているというような微笑」を浮かべ、みずから選んだ名前を、「ナジャ。なぜって、ロシア語で希望という言葉のはじまりだから、はじまりだけだから。」と、ブルトンに伝えたーーと、★先生は「ナジャ=希望のはじまり」という一言だけをミステリアスに暗示して、そのあと、ブルトンが(『ナジャ』のなかで)あてもなくパリの北駅周辺を歩き、出くわす光景をそのまま描写しているのと同じように、★先生の、日毎(de jour en jour)の描写でもある★twitter を見てみましょうかと、私たちを誘うのでした。


→ ロシア語で「希望」は、надежда / nadéžda / ナディエージダ、そのはじまりをとって、ナジャNadja!

 

12/15までさかのぼり、年をまたぎ、★ぜみの日までの、日毎挿しこまれる★写真と★tweet(=投稿された短文、tweetの原義は「つぶやき」ではなく「さえずり」)を追いかけはじめると、日々の出来事につながりはないはずなのに、一連の「journal=日記」となったそこここには、いまの世相(社会的状況)にも応用される(ときには立ち向かうための)、不思議な連環と類推と通底、暗示と予言とヒントが立ち現われてきて、★先生の日常が、まるで小説『ナジャ』を読んでいるかのように、起伏に富んだ、偶然の一致と昂奮と高揚にみちみちたものに思えてくるのです。

 

でもそれは「日々の生活の営み」だと、★先生は言うのですけれど……(私には、これが「超現実=真の人生」なんだと思えてしまう……皆さん、ナジャとの出会いのページだけでもまずは読んでみて! たくさんの言葉に、ひらめきや発見があると気づくはずです)。

trois

 

以下、第7回「新★ぜみ」の報告に代えて、okjによる講義の「概略」と、あわせて参加者からの「感想」を一部、匿名にてご紹介させていただきます。

 

***

 

【概略】

 

今日のぜみでは、『ナジャ』についての続編を希望する私たちに★先生が応じてくださいました。

 

ナジャ自身が自らその名前について「希望のはじまり」だというように、★先生にとってはこの本が希望のはじまりだとおっしゃいます。絶望的な現在の日本においても。


「私は誰か」と問うことが、問うている自分と問われている自分の2つに分かれ、誰とつきあっているのか、誰につきまとうのか、私は何をするのか、と人生の過程となっていく。偶然の連続と発見で作られていく人生ーー。

 

★先生自身の、二十歳のときの瀧口さんや澁澤さんとの出会いや、『ナジャ』そのものとの出会い、教授となってから出会う学生との人間関係から作られていく授業も、生きている人生のひとコマひとコマが、イメージの類推で通底していたり、伏線があらわになったり。「言葉」を口にしたり書いたりすることで、生きていることを示し、真に「思う」ことになるのだと。

 

その過程は意図せずとも、★先生のTwitterに読みとくことができます。アンナ・カリーナの死に見る 《Vivre sa vie》(→「気ままに暮らす」「自活する・生活費を稼ぐ」とも訳せる)の主人公ナナ(→自分で生きてゆこう、自由に生きてゆく)とナジャとの共通点、★先生とフランス映画社(川喜田和子と柴田駿)とアンゲロプロス、ポーラ美術館「シュルレアリスムと絵画」展からはエルンストとブルトンの「野生の目」について、また同美術館蔵の古代中国陶磁~20世紀の香水瓶~古代ギリシアやデルヴォーにも繋がっていく。国家による犯罪や記憶の抹消も、女性、室蘭、戦時下、選挙も、次々明らかになっていく。★先生の見せてくださるイランの誇り高き姿までも(詳細は★先生のTwitterをご覧ください)。

 

今回、★先生は『ナジャ』の中から、労働とは何かを、明らかにしてくださいました。ブルトンとナジャが、出会いのときから議論する「労働」。ある種の労働~産業革命によって人間を機械の部品のようにして疎外するもの~は反抗すべきものとして。さらに踏みこんでラファルグの『怠ける権利』についても解説してくださったのには、思わず会場からも感嘆の声があがりました。それは、ナジャの自由を求めて、ある種の労働を拒む姿のすばらしさとともに……。


ここで時間が来てしまいましたが、これまた続編希望必至でしょう!

 

★先生に希望を吹きこまれ、興奮も覚めやらぬまま、喜寿のお祝い夕食会へ。★先生にいわゆる「喜寿」のイメージはあてはまりませんが、とにかくめでたいものはめでたくて、このために全国から集まったさまざまな人々の熱量で、とても楽しくすばらしい会となりました。本当にありがとうございました!

 

***

 

ここからは、参加者よりお寄せいただきました「感想」を一部ご紹介します。

 

【感想】

 

◎今回も巖谷國士先生の言葉の広がり、連続性に引き込まれた。先生の話はいつもそうだが、聞いていると時間のたつのを忘れる。時の流れに身を委ねつつ「不動」の何かを探す試み。今回はなかでも労働に従属しない生き方が「希望のはじまり」という「ナジャ」の読みの明解さに感動!

 

◎「僕のツイッターも偶然で繋がっている。『ナジャ』を読むのと変わらない」

この言葉の意味がじわじわとわかってくる。なぜこの年頭にこのテーマなのかも。

 

◎「ナジャとは何か」 その奥深さ。なんと含蓄に豊んでいることか。そして充実した内容でした。

先生の毎日のツイッター…日々冷静にこの世を見つめ、考え、過ごさねばならないと、改めて考えさせられています。『ナジャ』を前回のぜみのあとにもう一度読み返す。ナジャは希望。先生に出会えて、ナジャに出会えて、ナジャとは何か……自分なりにこれからも取り組んでゆきたく……また『ナジャ』を読む★ゼミが重ねてありますように!!

 

◎大学時代に一瞬にして呼び戻され、魂が打ち震えました!

恐しい時代の日本のただ中にいることを痛感しました。が、いま思うことを言い、書いていきたいです。

「生きる事は偶然」「予定通りに生きない」染みました。先生のお変わりないこと! 次回も参加します。

 

◎新年ということにそこまで大きな意味を見いだす必要はないかもしれませんが、「ナジャがロシア語で希望の始まり」という言葉は、いつ聞いても泣きそうになります。

昨年は身も心も、なんだかとても辛いことが多かったのですが、この言葉をまた自分でも繰り返し、世界で起きていること、日々感じていることを、もっと密接に関わっていきたいと感じました。

 

◎予定を決めたり、計画をしながら生活していると思っていた毎日に、たくさんの偶然があることに気づきました。学生のころは日本にいるのがイヤだなと感じることが多かったのに、今は、何も感じない自分にびっくりします。久しぶりに先生にお会いしてフランス人になる野望を思い出したので、パリに行ける日が来るのを楽しみに、子育て頑張ろうと思える時間でした。

 

◎野生の目

Twitterから つながる すべてつながっている感覚!!!

労働からはなれる 生きること 反応すること 言うこと