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巖谷國士★講演「シュルレアリスムと『超現実主義』」@ 箱根, ポーラ美術館


12月15日におこなわれた、箱根のポーラ美術館での先生の「シュルレアリスムと『超現実主義』」の講演に参加しました。会期の長い展覧会ですので、行かれる予定の方にちょっとでも参考になればと、遅くなりましたが、ざっと報告をさせていただきます。

今回の展覧会は『シュルレアリスムと絵画』と題されていますが、これは1928年に刊行されたアンドレ・ブルトンの同名の書物から引用されたものだそうです。なぜこの本の題名が「シュルレアリスム〈と〉絵画」なのか、「シュルレアリスム〈の〉絵画」ではないのかーーといえば、シュルレアリスムはもともと、例えばキュビス(立体派)や印象派のような、美術の様式でも流派でもなかったからです。


シュルレアリスムは、一般に、専門的に分けて考えられる文学、絵画、写真、映画、哲学、政治、等々の枠を越えて捉えていくような、ものの見方、知り方、人間の生き方についての新しい思想でした。スタイルの共通性よりも、あらゆる境界を設けずに多様性と自由とを重んじることが、その特徴だったのです。

1918年、ヨーロッパをはじめ世界の多くの国を巻き込み繰り広げられた第一次世界大戦が終わりました。戦前までのヨーロッパでは、科学万能主義、キリスト教中心主義、人種差別に裏打ちされた植民地帝国主義のもと、人々は合理主義に基づく西欧近代文明を謳歌していました。その帰結としての大戦だったということ。


まだ20代だった来るべきシュルレアリスムの中心人物たちーーブルトン、アラゴン、エルンスト、エリュアールなどは、実際に戦場で大惨劇を体験し、その破綻した世界を目の当たりにし、戦争の現実に、これを支えてきた理性への疑いを抱くようになりました。秩序復帰、復興の声があがるなかで、ある種の若者たちは新しい動きを求めていたーーそれがシュルレアリスムの萌芽になっていったといえるでしょう。

同時代の新しい学問もシュルレアリストたちに影響を与えました。フロイトの無意識の発見(無意識状態というものがあるという発見→意識と無意識は対立するものではなく連続するもの)や夢の再評価(夢のような思考→夢と現実は連続するもの)。人類学の展開(人類のはじまりはひとつ→文明と野生は対立するものではなく連続するもの)。アインシュタインの相対性理論(宇宙そのもののでき方の発見→何かと何かの関連でしか物は存在しない)。

終戦の翌1919年には、理性的な思考から抜け出ようと、何も考えずに書くオートマティスム(自動記述)が、ブルトンとスーポーによって、はじめて試みられます。一体、物を考えるとはどういうことだろう。思考とは言語で考えるものだと思われているが、その思考にも、言語で捉えきれないものがあるのではないか。もっと深い場所からの干渉をうけているのではないか。実際に実験で書かれたものも、意想外の言葉同士の結びつきが連続し、不思議な美しい文章になっていました。

 

1924年に『シュルレアリスム宣言』が刊行され、このときがシュルレアリスムの誕生と言われていますが、1919年の試みこそがシュルレアリスムの誕生のときとも言えるでしょう、と★先生。

さて、『シュルレアリスムと絵画』では、絵画をシュルレアリスムという捉え方で見るとどうか、という、見る側からの美術論になっています(その唸るような文体、読んでいるとブルトン自身が次第に高揚していくのがわかり、翻訳しているのは快楽だったと、当時の★先生の秘密? を明かしてくださいました)。

 

冒頭で少し絵画について論じられていますが、概ね個別の画家や作品へのオマージュに多くのページがさかれています。冒頭に「目は野生の(sauvage)状態で存在する」とあります。学校等での教育により「目」はつねに文明的に、画一的に「見せられて」います。そこでは、同調することが求められます。事実、子供たちの描く絵は写実ではなく、野生に近く、残された古代人たちの絵によく似ています。人類の歴史が約20万年だとすると、一万年前あたりで物の見方が変わっていくのがみてとれます。我々は真の現実を見ていないのではないか、現実の見方を元に戻したい、思い込まされている現実ではなく、真の、本当の現実を見ていこうとブルトンは提唱します。

ところで、政治も現実である、現在の日本の隠蔽や改竄が横行している政治についても、思い込まされ「見せられた」ように見るのではなく、真の、本当の現実を、見ていくことが大切、と★先生。思わず聴いているこちらにも力が入ります。

『シュルレアリスムと絵画』は、刊行された2年後の1930年に、瀧口修造による翻訳で『超現実主義と絵画』と題され、日本でも出版されました(シュルレアリスムという言葉はアポリネールの造語から借用されたもの)。
シュルレアリスムは超現実主義と訳されましたが、他にも超写実主義とか超実在主義、シュール・リアリズム、などとも言われていました。しかし、当初のシュルレアリスムは、それまでの日本の社会状況のせいもあり、現実離れした、夢の世界のように変容されて捉えられてしまいました。それは、夢と現実とを区別せず、夢と現実とが連続するところに「超現実」を見ていた本来のシュルレアリスムとは全く違うものでした。略語のような「シュール」も、現実離れしたもの、何だかわからないモヤモヤしたもの、幻想的なもの、を示しているようで、これも本来のシュルレアリスムとは大きくかけ離れています。

翻訳された「超現実主義」という言葉の意味をはき違えた、という問題もあったようですが、「シュルレアリスム」とは、「シュル・レアリスム」というよりは「シュル・レアル・イスム」と区切って読まれるべきで、平たく日本語に訳すなら「自動的に人間がある状態」という意味に捉えるのが正しいのではないか、と★先生。「超」は超うれしい! や超スピードのように「強度」を表しているのであって、それはけっして「非」現実、ではない、と説明してくださいました。

最後に展示されている絵画について『シュルレアリスムと絵画』の本方式で絵画について、画家について、お話してくださいました。今回の展示では、海外の女性シュルレアリストの作品がなかったことが残念だったけれど、岡上淑子と野中ユリの作品が初めて一緒に展示された展覧会であったこともとても素晴らしかった、と。

もう、いつもにも増して濃密な講演で、講演を聴いた直後には頭パンパンで湯気がもうもう立ってきそうでした。個別の画家についてのお話もとても面白かったのですが、書ききれません、すみません。

 

カタログの★先生の文章「シュルレアリスムと絵画」もコンパクトでとても分かりやすく素晴らしかったです。

mk