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巖谷國士★講義 PC 第2回「ヴェネツィアについて」


「ヴェネーツィア!」

★先生の発する言葉がかけ声となり、これからめくるめくフェリーニのカサノヴァの世界がくりひろげられそうな予感!

人生と人格をもつ町……先週の「パリ」につづいて、今週は「ヴェネツィア」をめぐる講演です。

今日にも彼の地ヴェネツィアでは、50年に1度あるかないかの高潮Acqua altaが記録され、かつてアドリア海の女王と謳われた貴婦人は波うたれるがまま、たゆたえども沈まず…と言われたパリとは対照的に、ただひっそりと、だが誇り高く、その姿を乳白の緑色した海水に、まるで蜃気楼にうかぶ楼閣のごとくただよわせています。
★先生はその姿を、「快楽と豪奢と栄華と優美をあたえてくれた﨟たけた美女」と形容し、いまにも死にゆく(沈みゆく)彼女のそばにつきそって、その若き日の栄光を、彼女にも、私たちにも、語ってきかせてくださっているようでした。

1000年以上もつづいた海上共和国のはじまりは5世紀と新しく、アドリア海沿岸にひろがる潟(ラグーナ)に、ローマ帝国が東西に分裂するころ、ゲルマン侵攻に追われたウェネティ人(なかにはケルト人もいた!)が棲みついて、潟に木の杭をうって石を敷き、その上に都市を築いたというのです。

以後、7世紀には初代総督(ドージェ)が共和政の国をつくり、選挙と合議制、法律による法治国家と宗教の自由を実現したのでした。また地理的にも東ローマ(コンスタンティノーポリス!)帝国と親和性があり、その庇護をうけることで、東方世界のエキゾティックな産物をとりいれることもできました。

とうぜん領土もひろげ、モレア(ギリシア)の島々やダルマチアなどの東地中海域の点と点を、ひとつの線で結べてしまうような広大な海上帝国を築きあげます。まだsauvageなままの西側諸国に先んじて、ヴェネツィアは、古代と東方の、すぐれた文化・文物を知る(マルコ・ポーロ!)知的でエレガントな女王だったといえるでしょう。

しかし、15世紀末にコロンブスの大西洋横断やヴァスコ・ダ・ガマのインド航路が発見されて、ヴェネツィアの貿易は衰退してゆきます。こうして彼らに世界貿易の覇者の座は譲ったものの、その後の女王の生きのこり方はたくましく、17世紀にも造船、武器の製造、貿易などを細々とつづけながら、これまで町に包容してきたあらゆるものを「さぁ、書(描)くのよ!」とばかりに見せつけて、みごとにグランドツアーの旅の目的地・出発点となりおおせ、作家や画家や詩人や旅人たちの旅情と憧憬の念をかりたてる底力を披露したのでした。

事実、18世紀のヴェネツィアには、ロマネスク、ゴシック、ビザンティン、イスラーム、バロックの時代をへた、17世紀までの東西の装飾技法の粋が凝縮していました。

その数多ある代表的な建築物を、★先生の写真でへめぐります。サン・ジョルジョ・マッジョーレ島からはじまり、対岸のスキアヴォーニ河岸をのぞみ、右にドゥカーレ宮、船のつくピアツェッタの両脇円柱のうちひとつにある翼のあるライオン、図書館と美術館と、内奥のサン・マルコ寺院と、ポルティコのある広場……レオーニ荘(ペギー・グッゲンハイム美術館)、リアルト橋……などなど

写真のなかにただよう、そこはかとなく寂しげな町の記憶……それはヴィスコンティやフェリーニ、キャサリン・ヘップバーンの出演した数々の映画にも共通してある……快楽と退廃の記憶なのか? ……娼婦や仮面やペストの記憶なのか? たしかにヴェネツィアは、すでに旅することも変貌することも終え、その生涯を終えてなお、旅人をうけいれ誘う町なのかもしれません。

今週もすばらしいご講義でした!
次回の「プラハ」も心より期待しています。ありがとうございました!
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