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巖谷國士★講義 第6回「新★ぜみ」と PC 第1回「パリについて」の報告

 

冬晴れの空、陽の光も空気もいっそう澄んで冷えてすがすがしい週末でした。金曜、土曜とあった★先生の「パリについて」「ナジャについて」の講義を聴くために、連日はしごをした人もいらしたことでしょう。みなさんそれぞれが思い思いにたくさんの収穫を、★先生からもらったのではないかと思います。

 

ここでは「『新ぜみ』の報告」と題しているので、大学主催の「ヨーロッパの都市をめぐる」講座については簡単に。

毎週金曜1845~、プラチナ・カレッジと題し、学内2号館の大教室で港区在住の知識欲旺盛な方々を対象に、なかでも★先生は、11月の8日、15日、22日に、パリ、ヴェネツィア、プラハと、ヨーロッパの「横綱(貴婦人のがいい?)」クラスの3都市について、まるで各都市を歩く(balader)ように解説します。

 

第1回講義「パリについて」では、まず「パリは歩くことを誘う町だ」と表現され、★先生にとってはパリが東京・高輪に次ぐ第2の故郷とも言えるし、パリという町には人間を包みこみ、子どもたちを育ててゆくようなイメージがあるとか……パリを歩いていると、つねに水や川の流れを身近に感じるとか……まるで聴講生たちの地元・港区の身のまわりの風景を、いっきにパリのプラタナスやマロニエやロビニエの並木道に早変わりさせてしまうかのように、私たちを町歩きに連れ出してくださるのでした。

 

この9月にじっさいに訪ねたパリでのスナップショットを交え、火事で被災したノートルダムや、ジベール - ジュヌ(人文科学部門)書店地下のマンガ本の盛況ぶり、宿泊したホテルからの眺めや歩いた先々での発見などなどもご紹介くださいましたが、なにより圧巻だったのは、この短い時間のうちに、2500年前から存在していたパリの町の歴史をもいっきに辿ってしまうことでした。

 

ここにおぼえがきまでに箇条書きにしますと……

ケルト人の居住地としてはじまる ~ ドルイド僧のいる集落~神殿をもたず、神は森に宿る ~ パリシー人(パリの由来/ルテティア)~ 古代ローマ帝国とガリア戦記、カエサルとヴェルサンジェトリクス ~ アレーヌ・ド・ルテス遺跡 ~ キリスト教と殉教者たち、サン・ドニとサント・ジュヌヴィエーヴの説法 ~ ゲルマン侵攻、西ゴート族、ゴシック、ノートルダム大聖堂 ~ フランク王朝 ~ ノルマン侵攻にはヴァイキングの船が700隻と3万人の兵士たちがセーヌを上ってきた! ~ 百年戦争 ~ フランス3大王……などなど。

 

★先生は「波打たれても沈まない «il est battu par les flots mais ne sombre pas» 」というパリの標語(?)を引用し、パリが(王のものではなく)つねに市民のものであったこと、どんなに敵の攻撃をうけようといつでも町を守ってきたこと、自由を獲得するために市民が自発的に反抗してきたことも話しました。

 

前回の第5回★ぜみにも共通するお話もありましたが、今回もまた、パリの歴史を知り、町の特性と性格を知り、★先生の指さす、目配せする「ものの見方・とらえ方」に存分に身をゆだねながら聴く「パリについて」は格別なものでした。

 

……さぁ、ここから「新★ぜみ」の報告に代えて、okjさんに第6回「新★ぜみ」の「概略」と、あわせて参加者からの「感想」を一部、匿名にてご紹介させていただきます。

 

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【概略】


第6回 新★ぜみで、巖谷國士先生が「『ナジャ』とは何か?」についてお話くださいました。

 

冒頭から、ナジャがパリに暮らす労働者であり、けっして人間ばなれした妖精などではないことを指摘され、背景となる、植民地帝国主義~第一次世界大戦後の世界の現実~シュルレアリスムの誕生について、広大な記憶の地図を示してくださいました。


そして★先生の、35年にわたる訳書『ナジャ』との旅、(ブルトンの、あるいは、★先生の)人生そのものともなりえたこの本とのつきあいについても、くわしく語ってくださいました。

 

ブルトンが1928年に出した初版を、1962年に全面的に書き直した(300箇所以上の訂正と注や写真の追補など)ことの意味、そのひとつひとつに★先生が「注」をつけるという作業の過程で、再びブルトンとつきあい、舞台となる場所を旅して巡って……日本語に訳す際の語順や一人称をどうするか……『翻訳』とは何か?についてまで、★先生が直に語られたことも初めてだったのではないでしょうか。


そうして明らかになるブルトンの言葉の伏線の数々。『ナジャ』のなかでは「手」「血」「髪の毛」など、それぞれの言葉だけでも物語が読めてしまう。偶然と必然と運命と「私」、この書物を読むことそのものが人生。

孤独だと思っていたのは錯覚で、じつは誰かと共謀関係にあること。

 

今日この場にいた全員に、★先生は『ナジャ』を通して、明かしてくださった現実と事実と生きる希望とを吹きこんでくださったように思います。


パリの地図を用いて、ブルトンとナジャが出会った場所、右岸と左岸の位置関係を解説してくださったのも、たまたま開いたページから無限に読み解かれる物語も、本当に驚異的でおもしろすぎて、発見と出会いの嵐は私たちを巻き込んで、あっという間に時間が過ぎていました。

 

ぜひ続編を希望いたします。

 

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さてここからは、参加者よりお寄せいただきました「感想」を一部ご紹介します。

 

【感想】

 

◎私の手元にある幾つも・幾つかの書物のなかで、一緒にいろいろな土地を旅してくれた、そしてボロボロになってしまった『ナジャ』を、今日改めて読み・聴きながら、なぜ、10代だった私が『ナジャ』と出会ったのか、思いを巡らせていました。「意味」ではなく訳された「言葉」にかつて(今も)うっとりし、そして今日、現代を日々生きることの困難、怒りなどにも結びついて、身体の一部(「ナジャ」が私の、ではなく私が「ナジャ」の)である喜びを噛み締めています。

 

◎今日のぜみテーマがブルトンの「ナジャ」と聞いて絶対参加したい‼︎と決めていました。大学時代に出会ったこの本は、日記の形をしているけれど、現実なのか物語なのかわからない不思議さを漂わせ、10年経っても魅力的な光を本棚から放っています。今回★先生より「ナジャ」翻訳の際に「言葉の出来事が偶然に出てきてつながっていく」過程を書いたと知って、「ナジャ」だけでなく言葉の出会いを楽しむ作品であることも知り、もっと読み解きたくなりました。ナジャ第2弾、是非お願いします‼︎

 

◎巖谷先生の『ナジャ』との出会いをうかがえて感動しました。伏線に気づくことが人生。本を読むこと自体が人生……偶然に今日ここに集まったメンバーの面々を眺めて、またいつか、先生に『ナジャ』のお話をうかがった今日この日を思い出すのかなあと。それを楽しみに……。

 

◎人生とは何かをこんなコトバで話してくれるナジャとブルトン。同調圧力から解放される。元気になる。くもの巣の中に入っていく感覚。納得できない状態。偶然のつらなり。だからこそ感動や驚きがあるんだと思いました。先生の翻訳がすばらしいです。

 

◎「用途」から解放されること。人生には、決まった「用途」はない。人生の出来事には、意味を与えることはできるかもしれないが、先天的にある意味ではない。オブジェとは、何とともにあるのか、「何とつきあっているのか」によって、次々に意味を帯び、あるいは変化していく。『ナジャ』を読むこととは、オブジェとしてのテクストの「余白」を考えることで生まれていく配置(意味)を編集していくことだろう。それは、まるで人生のような本として『ナジャ』を考えることであり、本を読むとは、本と共謀関係を結ぶことであるだろう。