巖谷國士★講演「マン・レイ/オブジェ/シュルレアリスム」@ヨコハマ創造都市センター

 

この日限りの、マン・レイの作品公開。軽井沢セゾン美術館からやってきたオブジェたちは、★先生がオブジェとは何かをギリシア語の語源から語るのそのままに、われわれの「前に投げだされて」いました。

 

マン・レイは、オブジェにあらかじめ意味や「正解」を与えることはしません。オブジェは、意味も役割も用途もメッセージもなく、人間の主観や内面と断絶したところに、投げだされる「モノじたい」なのです。そこにわれわれが何を読むか。アナログ思考がはてしなく展開し、自由の、未知の世界にひきこまれ、知らないあいだに世界のはてまで連れていかれるような旅がはじまります。

 

これが「国家」や「資本主義」による支配にとっては都合の悪いことで、「戦争」は人間も含めてあらゆるものに用途を強要し、国家のために用い、役に立たないものを排除する--と鋭く指摘する★先生。20世紀からはじまるこれらに支配される現代において、オブジェはそうしたものからの解放といえます。

 

マン・レイは第一次世界大戦がはじまって以降、『戦争』や『ふたり』という絵を描いたり、『資本主義』という風刺漫画も描いていました。★先生はマン・レイのロシア系ユダヤ人としての出自を語り、マン・レイのものの見方の立ち位置や客観性を語ります。すべての作品はセルフポートレートともいえ、自らの顔も名前も人間そのものもオブジェ化していることを指摘。生活のための仕事としてのファッション写真ですら、マン・レイが撮ると「商品」としての用途から解放されているのです。

 

次々とマン・レイの作品を映写しながら、マルセル・デュシャンとの関係、オブジェと写真作品とのちがい、作品『贈り物』にみる身体感覚や戦争との関係、オブジェが作っては壊されることにマン・レイがみる永続性、マン・レイの映画観、錯視とことば遊びの永遠に連鎖するアナロジー、身体を楽器のアナロジー、『ペシャージュ』は「桃風景」だけではなく「罪風景」でもあり、三美神のアナロジーは★写真作品へも連鎖していること……などを展開し、われわれをアナロジーの魔のただなかにおいて驚嘆させます。

『われわれすべてに欠けているもの』というオブジェから、永続性や人間の属性、マン・レイが映画に撮らせたシャボン玉、レーニンの言葉にまで連鎖したことは、本当に感動的でした。

 

★先生が語るマン・レイの底無しの謎、永遠に追いたくなります!解放!

(okj)