巖谷國士★講演「絵画とシュルレアリスム アンドレ・ブルトン再発見」@ギャルリー宮脇


巖谷先生の講演「絵画とシュルレアリスム アンドレ・ブルトン再発見」は、ミロのかわいい奴らやキリコのおかしなマネキン、エルンストのちっこい鳥星人などに見守られながら、行なわれました。

ブルトンの『シュルレアリスムと絵画』の冒頭を飾る一文「眼は野生の状態で存在している」。
巖谷先生は、これをどう読むかという問いからはじめます。野生とは文明化される以前を指すため、「野生の目」とは、常識や慣習にとらわれずに(言葉のない状態で?)ものをみる行為のことです。ふつう、この「野生の眼」は画家の眼を指すと読みがちですが、先生は、さらに「絵を見る観者の眼」として読む必要があるとおっしゃいます。

『シュルレアリスムと絵画』は、シュルレアリスム「と」絵画の関係を扱っているのであり、いわゆる「シュルレアリスム絵画」の様式や技法について語った本ではありません。「シュルレアリスム絵画は存在しない」というピエール・ナヴィルの主張をブルトンはまったく問題にせず、つまり様式や方法としてのシュルレアリスムを否定しながらも、シュルレアリスムが絵画をどう「見る」か、ひたすら追求しました。

だからブルトンは絵画を「窓」とみなし、単なる構成された平面ではなく、そこから見わたすかぎりにひろがる「風景」のなかへ眼で分け行ってゆく過程を演じているのではないか。それゆえ、その森や町などの風景がわたしたちの「共通の場所」にもなり、わたしたちはそのなかに生きている作者・画家にも出会えるのではないか。
ブルトンはピカソをまず登場させながらも、キュビスムの方法など問題にせず、やおらデ・キリコの広場や室内に入ってゆきます。ついでキリコの地平を受けついだエルンストやタンギーのなかに、戦争の時代の「共通の場所」の可能性を見出してゆきます。

ブルトンの『シュルレアリスムと絵画』は、野生の眼で絵画を「見る」ことの実践こそが、魅惑的であると証明した、例外的な本です。先生のお話を聞いていると、美術史を様式や方法の展開ばかりで合理的に「構築」する現代の教科書式な批評が古びてみえます。ブルトンの詩的エクリチュールは誰にもまねできない唯一のものですが、わたしたちはブルトンのそれを読み共感することで、共有することができます。

この閉塞的な時代にこそ、ブルトンの絵の見方、絵の生き方を再発見すべきだ、と先生のお話を聞きながら強く感じました。

(はせ)