巖谷國士★特別講演「種村季弘のマニエリスム 迷宮としての書物」@板橋区立美術館

種村さんとちょうど10歳ちがいだった★先生。その出会いから種村さんのお亡くなりになるまでの、40年にわたるふたりの付きあいを語ってくださり、そこから種村さんという人物が、マニエリスムとは何かが、みるみる浮かびあがってくる魔術的なご講演でした!

 

職業も、住む場所も、教える大学も、転々として同じことを長くしなかったという種村さん、マニエリスムを、美意識や趣味としてはもちろん、モラル=人間の生き方にまで広げていたといいます。結論を出さない「宙吊り」の状態でいることも、そう。

ものすごい仕事量・仕事の速さで律儀ないっぽうで、おおらかな超「O型気質」で、時に誇張をする体質であることもマニエリスムを形成していたと★先生。★先生が国学院大学で教えていたとき、なんと隣の教室で種村さんが教えていたとか! 授業があるたびにふたりで飲みにくりだした日々のお話の、おもしろいことおもしろいこと! トントン拍子で話が通じ、それでいて「平行線」をたどるふたり。銀座マキシムでアール・ヌーヴォーについての対談をしたときも、★先生がナンシー派のガレの話を出すならば、種村さんはダルムシュタットのオルブリッヒの話をして平行線。種村さんはある種の戦略家で、「負けによる勝ち」を狙うという、ここにもマニエリスムの特徴があったといいます。

 

1968年版『怪物のユートピア』の画像を示しながら、種村さんには楕円のようにふたつの中心があって、西と東は戦いだという感覚、片方がゆがんだもう片方にひっぱられていくという感覚があったと★先生、これに対して澁澤さんは円のように中心がひとつだったともおっしゃいます。
おふたりと深く付きあった★先生こその視点での比較に、目からウロコの納得!

 

さらに、1957年にグスタフ・ルネ・ホッケが書き、1966年に種村さんが翻訳し出版された『迷宮としての世界』のなかの図版や、ヘロドトスの挿し絵、地中海の地図などを示しながら、マニエリスムとは何かについてお話を展開します。


マニエリスムはあらゆる時代にあり、政治権力が人為的につくりだすクラシシスムとの対立がそもそもあること。宗教戦争やペストや火山の爆発などでそれまで信じられてきたものが分裂し、あらゆるものの価値が相対化されていった16世紀という危機の時代……その不安が無意識にあらわれていたマニエリスムは、様式をもつものではなく、権威への反抗の表現であったこと。これに対してバロックは、カトリックの威光を示そうとする宗教的権威の表現であったこと。16世紀は大航海時代でもあり、ミラビリア(驚異)の発見もマニエリスムを推進させたこと。ホッケがあくまでヨーロッパの歴史の流れの中で見ていたのに対し、同じ1957年にアンドレ・ブルトンは『魔術的芸術』の中で、ヨーロッパの正統美術を覆していて、人類学的見地から見ていたことも鋭く指摘されます。

 

地中海の地図や、オーストリア・ハンガリー帝国の地図で、古代ギリシア時代からアッチカ風とイオニア風(アシア風)が共存・対立していたこと、この東方からの流入がマニエリスムを生んでいったことも明らかに! たとえば、マゾヒズムも西の権力側から見て病気とされましたが、ザッヘル=マゾッホが育ったガリツィアという「辺境」の地では、母権制が通常のことだったのです。

 

種村さんは、このように無数の民族がモザイクのような多様性をなしていたオーストリア・ハンガリー帝国が、第一次世界大戦で失われてしまったことを意識し、なおかつ、自身も東京大空襲で生まれ育った池袋の家を焼かれていて、失われた故郷への憧れを持っていた……宙吊りの状態にあった……と★先生。

最近出た種村さんの本にも、種村さんの見た戦災や震災の夢が書いてあることに触れ、種村さんが災害を身近に感じ、マニエリスムをそこに重ねて何かをやろうとしていたのでは……と現在の世界まで見通します。

宙吊りのまま、逝ってしまった種村さん。★先生が軽井沢にいてその訃報を聞いたとき、浅間山が爆発したそうです。

 

★先生の目をとおして立ちのぼってくる、種村さんの姿、ヨーロッパの歴史、マグナ・グラエキア、ヨーロッパの「辺境」世界、ヨーロッパ史以前の歴史、ひとつではない原理、マニエリスム、神話、驚異、戦災の感覚……このような広大な規模で、かつ具体的なエピソードとして、「種村季弘のマニエリスム」を知ることができようとは……。

時間の感覚もなくなるようなめくるめく体験で、★先生の魔術としか言いようがありません。お話が、体験が、歴史が、種村さんが、すべてがこの講演のなかによみがえり、生きていました!

このライヴに立ち会えたことを心から幸運に思います。(okj)