巖谷國士★トークライヴ「花と木のシュルレアリスム」@京都 恵文社一乗寺店

5月の京都で、花と木のお話をすることになった★先生。恵文社一乗寺店でのご講演の前に、京都新聞から「京都への思い」についてのインタビューを受け、そのロケーション撮影のために、渉成園(『幻想植物園 花と木の話』より「からたち」を参照)を訪ねることになりました。

京都の印象を色でたとえると?……と問われて「白」と答える★先生。
土の白さや玉砂利の白さ、合理的な直線から構成された町のわかりやすさなどを挙げて、京都の印象をお話しくださいます。
日本の色の「白」についても教えてくださり、例えば「おもしろい」とは、おもて(面)がはっきりすること(白い)だといいます。もやもやしていたものが明るく澄みわたるように、はっきりすること、わかること、だと。
そんなお話を聞いたあと、渉成園の白い玉砂利の空間のなかに、すみれが咲いているを見つけたときは、あぁ、これが京都なんだな!と、なんとなく京都の白を知ったのでした。
 
京都への思いを植物の美しさで語る★先生。
京都には、日本庭園だけでなく、ちょっとしたところにも花や木が繁茂しています。
たとえば若冲の五百羅漢がある石峯寺への山門につづく石段に咲く花々や、境内に混沌と咲く植物たちの魅力とそこを守っている女性の佇まい。

また京都には花の絵が多いことも重要だと、妙心寺の「てっせんと風車の襖絵」(『幻想植物園』にも登場)や、細見美術館の酒井抱一「白蓮図」(日経新聞連載「植物幻想十選」にも登場)をあげながら、さまざまな京都の花を紹介してくださいました。

インド学者でもあり★先生と50年来の友人だった松山俊太郎さんを白蓮になぞらえたお話や、エジプト蓮の姿であらわされるオシリスの物語にまでおよび、花には見立てがあり、シニフィアン(意味作用)が生じるということも。
 
講演「花と木の話」においても、★先生は家族や友人との思い出も含めて、博物学的に、旅するように、植物が人間にとって何であるかを考えながら、2011年からこの連載をつづけてこられたこと、その経緯を語りはじめました。

それは震災と、震災後の現実にも対応していたということ。
シュルレアリスムも、科学技術と合理主義の文明の先に行きついた破壊と壊滅(=第一次世界大戦)という現実に、抵抗して生まれました。文明の対極にある、野生・森の側に身を置くシュルレアリスム……野生の側に立つかぎり、シュルレアリスムは自然とつながっていて、それだから多くの絵に自然が描かれ、その形や姿、表現こそが魅力的だとおっしゃいます。絵画ではエルンスト、文学ではブルトンを例に出されました。
 
どこかしら植物にひたっているような1920年代のブルトンは、ヒースやサンザシ、ノーゼンハレンやスミレやひまわりなど、身近な野に咲く花を書き、『ナジャ』では町そのものが森のように描かれるようになったと★先生。
そして1930年代からはじまるブルトンの旅……カナリヤ諸島で竜血樹に出会い、メキシコやマルティニック島でそれ自体が超現実であるかのような驚異の植物の姿に出会ったり、姿だけでなく「ピターヤという木の実は愛の味がする」と書いているように、五感で植物を体験しはじめるブルトン。
自然界のものはすべて意味内容や用途を持たない不思議なオブジェで、植物界そのものが驚異の部屋なのだとも!
 
新著『幻想植物園  花と木の話』は、超現実への誘いが★先生ご自身のなかにもはじまった本だとおっしゃいます。3年間の連載の間に、同時に執筆・展覧会監修した『森と芸術』、『〈遊ぶ〉シュルレアリスム』などにも触れながら、シュルレアリスムとは主義や様式などではなく、人間の生き方であること、そこにはブリコラージュという人間の本質的な営みがあることを語り、『幻想植物園  花と木の話』もまたブリコラージュで書かれたとお話しくださるのでした。

身近な花を毎月扱い、銀河鉄道の夜に出てくる汽車の車窓のように写真を挿入し、アナロジーが自然と広がり、旅がはじまる本。
わたしたちはすでに★先生の旅~超現実~に誘われています!
(okj)