巖谷國士講演★瀧口修造の〈北〉@花巻萬鉄五郎記念美術館でのご報告!

(「書きこみ★ゲストBook」に書かれたviolet報告を整理して、ここに掲載させていただきます

~Mont Analogue事務局より)

 

念願の!夢にまで見た花巻での巖谷國士★講演会「瀧口修造の〈北〉震災・貝殻・シュルレアリスム」!

 

前日に三陸被災地をめぐられてのご講演。2013年9月8日(日)。
(車の旅で、★先生の行く先、カメラを向けるもの、ついつい追っかけた。そこには既知の未知・不可視だった可視!「見る」おもしろさ!)

 

よりによって講演の日の朝、2020年「東京」オリンピックの開催が決定。

秋雨の暗い雲が嵐を呼びそう。観客の出足も気にかかる。

昭和の古い町なみ商店街の一角、役所支所の教室みたいな会議室。さっきまでガランとしていたそこはたちまち秋晴れた!

なんと小樽文学舎バスツアーご一行16人!70F★卒ゼミ県外女性数人まで!
キャラコ(様)白地に幅のせまい(薄)ピンク色のクロスをかけた長テーブルを前に座された★先生。「〈遊ぶ〉シュルレアリスム」の表紙にも見えてくる!

その日のテクストとなった瀧口修造の「自筆年譜」には、小樽講演時と同じページと、あえて別のページが引かれてる。
まずは、〈北〉と「国」それぞれにある、二つの意味について前置きされた。
「北」は故郷としての〈北〉と、「縄文的風土ともいえるもの」・文明に対する「野生」の〈北〉だという。
瀧口さんのこれら2つの普遍的な〈北〉を底流におきながら、小樽★講演では前者から、花巻★講演では後者から、発するシュルレアリスムの色を濃くして、★先生は語られていたように思う。

「私のなかには〈北〉がありすぎるので……」というブルトンの言葉の〈北〉に反応していたかもしれない瀧口修造が、イデオロギーをもたず、「全面的同意」をしなかった根拠としての、野生の〈北〉だ。
(故郷としての〈北〉=生まれ育った「雪国」富山。後には母ともなりし姉みさをへの愛と育った(暮らした)町としての「雪国」小樽。みさをとの悲惨な別れのあと、拠点としての小樽は消えた。)

自ずと小樽では美しく切なく、花巻では切なくもズシズシと。小樽にはランプや夕日や雪あかりや色のある光がこぼれていた。花巻では津波や地震のあとのざわつく光景ばかりを見る。たしかに同じ場所も通ったけれど、まるで異なる背景を旅しながら、気づくと共通の場所で出会っている!
……ん? 出会ったのは自分と自分?! 狐につままれたよう。いやはやもう!
魔術的芸術的★講演!

今回の講演の鍵ともなる二つの「国」。
state=その時その時で変わる「国家」としての国と、country=普遍的な「自然」としての国・その人によって変わらない土地。
「あまちゃん」の歌のひとつ『地元に帰ろう』の「地元」みたいなものですね、と★先生。(「あまちゃん」をひきあいに出して嬉しそう……都度、東北らしく?! ひかえめに沸く!)

まずは年譜の書かれた1969年に着目。瀧口さんが脳血栓で倒れた年。学生の反乱、東大安田講堂事件の年でもある。死を意識して書かれたものか? 苦悩の中での手作業(遊び)の繰り返しだったのか? と★先生。
年譜をたどりながら、瀧口さんと〈北〉・震災・貝殻(・海)・シュルレアリスム……それら普遍的なものたちと、二つの「国」を重ねるように読み解かれていった。
出生年ページにある「想像するに、先祖は……謂わば戦争孤児であったのではないか。」このくだりも、なにやら予告めいている。朝からざわつく日。

 


1923年、関東大震災に「会」って以降(2011.3.11以降の現代もまた似て)、国家は縮小ではなく海外侵略へ、戦争へ……ファシズム国家へ……1940年の「東京」オリンピック(中止)へ。
「長髪で歩いていたので竹槍をもった自警団に追跡されたこともある」瀧口さん。震災後は異質なものが排除されて個が消える。
現代の福島然り。


国家のために難民・疎開。故郷喪失者の続出した20-21世紀。「旅の時代」ともいえるとか。そんな時代を背景に再三めばえた社会主義思想・ユートピア思想。
思想的風土ともいえる新天地北海道「北」~Nowhere。


1924年、偶然にも小樽にいたという瀧口修造・宮澤賢治・小林多喜二。北へのベクトルを持つこの不思議な面々が、あの小樽公園で会っていたかもしれない~そんなおもしろい光景までも見せてくださる領域なき★先生。「アンデルセン」と「向物性」の話では盛りあがったか?! 瀧口さんはシュルレアリスムへ、賢治は法華経へ。

3.11以後にもある種のコミュニティ思想(country)は生まれたものの、stateにのされてしまうのが現実だという。一見地域コミュニティのような「自警団」も、ゆきすぎた監視社会の危険性を孕むと言及された。そうそう、息苦しい。デジタルなインターネット社会がますますそれを助長するのだろう。〈北〉を持ち続けることの困難ゆえの偉大さ!

「現実の漂流物の間に立ちすくんだやうな」蘭島の光景に大震災の記憶~戦争の予兆のようなものを感じたひと夏の回想。「現実の」は、「現実からの」か?「現実にある」か? と★先生。

巖谷國士が瀧口修造と運命的な出会いをした、以来50年ぶりに見た三陸の吉里吉里海岸は、蘭島のそれに似ていたという。
タンギー・トワイヤン・岡上淑子……荒涼とした風景は物質的光景。シュルレアリストのたいていは、観念的なものではなく、とことん物質的なもの・自然物へと向かった。
瀧口修造のつくったことば「向物性」! 本来生命が住んでいた家。
だれかが住んでいたはずの貝殻。切ないまでに美しい姉みさをの……ランボーや偉大な詩人たちの追想の貝殻。
瀧口さんは貝殻に反応して、中を見た。中を想像した。貝殻は時代そのもので、時代そのものが中身を失った貝殻のようだった……物質的骨頂(*これ以上ないもの)を貝殻に見ていた瀧口さん――と語られた。


「現実からの」たたきつけられるまでの漂流物の間に立って、超現実を見たほうがいい。きっと瀧口さんのころ以上に空っぽな現代。
自然界には存在しないもの、核爆発。東京五輪に沸く同じ日本列島・福島に、住民さえ近づくも見るもままならない残酷な現実の光景がある。
見えない現実の光景だから、みんなで意識的にかかえて見ようとしなければ……いわれのない差別をうけているものたちも。


震災や戦争の光景にシュルレアリストたちが見てきた超現実。被災地陸前高田の切土・盛土の宅地造成の向かう先への危惧などについてもお話しされながら、普遍的な「自然」としての国(country)を、その時その時で変わる「国家」としての国(state)にのされて、奪われてはならない!と。

 

ブルトン~瀧口修造~と同様、やはり「全面的同意」をしないであろう巖谷國士の〈北〉の〈北〉から発せられた強くもやさしいメッセージ……花巻★講演。まさにライヴ! 

 

その朝のできごとまでアナロジーの糸でつながれた。
Mont★Analogueにも野生の〈北〉がある。stateのようなデジタルにのされずに発信しなきゃ!

violet