巖谷國士★講演「瀧口修造とマルセル・デュシャン」@千葉市美術館

2011年12月11日(日)千葉市美術館にて開催中の展覧会イヴェントで、

★先生が「瀧口修造とマルセル・デュシャン」と題した記念講演をなさいました!

 

瀧口修造とマルセル・デュシャン

……この二人がならび、解き明かされるその幸福な関係は、

巖谷國士先生の言葉でしか表現されえないものといえるでしょう。

今年最後の★最終講義「瀧口修造とマルセル・デュシャン」講演録(troisとokj)

昨日の「瀧口修造とマルセル・デュシャン」のご講演、ほんとうに素晴らしかったです!
図録の序文を読み返し、さらに講演での★先生の言葉を思い返し、こんなにも瀧口修造とマルセル・デュシャンの関係が、二人の生きている間に、そして瀧口さんの生きている間に、ゆっくりと丁寧に、また軽やかに豊饒に、育まれていたことがわかり、心が震えました。

それぞれの作家がすでに物故で、彼らが亡くなって数十年がたとうとしている、直接に交流をもった人が少なくなっていく時間の経過のなかで……展覧会ではと かく美術品の価値や歴史的稀少性からしか評価・鑑賞されないけれど……★先生の証言は、重要かつ歴史の真実として、残されていくべきものだと思いました。

まだ20歳の★先生に、40歳の年の差のある年長者だった瀧口さんは、長い時間をかけてさまざまなことを話して聞かせてくださった。
瀧口さんもまた50代の終わりにしてなお、若者の悩むように「私とは誰か?」と自分に問いかける日々(des journées)がつづいていた。
アンドレ・ブルトンの「Qui suis-je?」という問い(謎)かけは、瀧口さんと★先生を……そして、この講演を聞いた私たちをも……とらえることになり、そしてそれは生涯つづく謎になりました。

ブルトンのいう「Qui suis-je?」という、人生の新しいかたちを探る問いは、きっとシュルレアリスムの作家たちすべてのテーマだったでしょう。
そのなかにあって、デュシャンも、瀧口さんも、それぞれが独自に人生の新しいかたちを、芸術を人生ととらえながら探っていました。

私たちは展覧会で、彼らが人生を探ってゆく過程を、作品として見ることができましたが、これを気づかせてくれたのは、やはり★先生の言葉によります。

デュシャンは「私は誰でしょう?」と問いかけながら、自分のプロフィルをいくつも作った……それもガラス越しに……
瀧口修造は「私とは誰であるか? 誰を追うのか?」と、他者とのかかわりのなかで作品を残していった……それは贈り物というかたちをとって……

これまで、私は二人の残された作品からしかそれぞれの作家を知ろうとしていませんでしたが、★先生の講演を聞き、とくに瀧口修造が、どうして作品を制作するようになったのかを、はっきりと知ることになりました。

1958年、デュシャンと偶然にも出会い(会うことが必然であったかのように!)、以来、瀧口さんは「Qui suis-je?」の問いに答えを見いだそうと、作品制作をはじめるようになりました。

若い★先生とも語りあった瀧口さんが、「私とは誰か?」と自分に問いかける日々(des journées)は、デュシャンに手紙を書き、デュシャンとある種の共謀関係をもって「店」をひらくことによって、しだいに連続するようになっていきました。

瀧口さんが「店」の売り物を制作する日々(jours)はやがて連なり、Journey(旅)になってゆき……と★先生は語り、
瀧口さんがその「旅」の過程から、いよいよ特別な「透明の人格、言葉とオブジェ」を獲得して、存在するようになった……と知り、ふかく感動しました。

***

デュシャンと瀧口さんが商人としてつながった小さな店の誕生、その店ではお金のやり取りがなく、物々交換か記念品・贈り物ばかりが生まれてしまう……オブジェたちのざわめきに耳を傾ける瀧口さん。

デュシャンとの出会いからはじまった瀧口さんの美しい老年の旅……切ないほどに美しい作品たち・オブジェたち……それらはみんな、瀧口さんの旅の途中、出会った人々とのあいだから生まれたものなんだ。

デュシャンに出会ってほんの10年、それも手紙のやりとりだけ……でもじゅうぶん「わけは承知していた」二人。

★先生の示される、瀧口さんを写したプロフィルもまた印象的で
……瀧口さんはデュシャンの死後、思いきってでかけたフィラデルフィアの地で、デュシャンの遺作を前にどんなことを思ったのでしょう? 
……瀧口さん自身の死の前年、デュシャンの小展示「窓越しに……」展で、瀧口さんはなにを思っていたのでしょう?

★先生はご自身が作話した絵本「扉の国のチコ」のなかでも、チコの(帽子を目深にかぶった視線の先のわからない)姿をかりて、瀧口さんへなんども問いかけているかのようです。

瀧口さんは幸福だったなと心から思います。
デュシャンとこんなにも美しく幸福な関係があった事実を、「若い友人」であった★先生がきちんと理解していて、そしてその話を、後世の私たちに聞かせてくださったのですから。

こんな風に瀧口さんとデュシャンの関係を話して聞かせていただけるなんて、それはとてもすてきな★先生からのプレゼントでした。

★先生は最後に、瀧口さんの「遺言」という詩を引用されました。
……若い女友達へ……いずれ会える場所
……壁もない、扉もない、いまぼくが立ち去ったところに直通している

このときはもう、言葉のひとつひとつが私たちへの贈り物のように聞こえてきます! 今年最後の★最終講義、聞くことができてほんとうによかった!

(trois)

瀧口修造とマルセル・デュシャンは、1958年8月、カタルーニャのポルト・リガト、サルバドール・ダリの家で偶然の初対面をしました。
 
この1958年の4カ月半におよぶあらゆる出会いにみちた瀧口さんのヨーロッパ旅行、
アンドレ・ブルトンとの会見、帰国後デュシャンと始まった親交、手紙のやりとり、
ロト・デッサンなどの「書く」ことと「描く」ことをめぐる造形的実験、「オブジェの店」の構想、
★先生との出会い、西落合の書斎でざわめくオブジェたち、『マルセル・デュシャン語録』出版の過程、
ついにフィラデルフィア美術館で《大ガラス》や遺作と「最初の再会」をすること、その帰国後の出来事、
★先生に贈られた最後のリバティ・パスポート、亡くなってなお終わらない旅……
と、瀧口さんの人生の旅のお話が語られました。
 
カタログ序文は、まさに旅の文章。芸術と人生とをつなげていき、人生の新しい形をつくる、
日々の生活としての旅が記されています。必読です! 

こうした「旅」のイメージは、瀧口さんとデュシャンの共通点です。いっぽうで、この展覧会を見て、
ふたりのまるで違うところも感じたと★先生は話されました。 
 
デュシャンの作品は自画像的で、箱やトランクの中にも自分の作品を入れます。
《大ガラス》や《フレッシュ・ウィドウ》しかり、観客との間にガラスを設置しました。
自己完結のおそるべきアーティストです。
まるでガラスのようなデュシャン、外からすべて見えるのに、通りぬけられない、接近することができない……
「私は誰でしょう?」といっているかのよう。 
 
いっぽう瀧口さんの作品は、誰かとの出会い・付きあい・別れ、その過程で生じた「記念品」です。
出会ったほぼすべての人と関係を結び、そこに無数の贈り物が生まれました。
自画像というよりも、いわば他者との関連像。
贈り物はよく箱の形をとり、そこには旅の記念品や想い出の自然物などが入れられました。
「オブジェの店」も、店といいながらじつは何も売らず、贈っていたのです。
『マルセル・デュシャン語録』もまた、デュシャンへの贈り物としての箱、その中にはさまざまな他者が集まりました。
「私とは誰か、誰を追うか」と宙づりのまま「いま」を探しているような瀧口さん、常に他者との関係の間で浮遊し、そこを行き来するのが「贈り物」でした。 
 
他者との関係、さまざまなものがアナロジー(類推)で網の目のように広がっていく。
デュシャンと瀧口さんはモン・アナログ(mon analogue)=私の類似物、だったのですね! 
 
瀧口さんと★先生との関係がまた、本当に胸にせまるものでした。
友人として親しくつきあった★先生だからこそ語れる真実。
出会いは松原のアトリエ、人生の複数の見通しをもっていたふたりは即語りあう、
別れはパリへ旅立つ★先生に、「最後の」といってリバティ・パスポートを贈る。
そこに添えられた、★先生と奥様の名を用いたアクロスティックの詩は、みごとに★先生を表現していて……
瀧口さんはこの数カ月後にお亡くなりになりました。 
 
そして「旅」は続き、受けつがれ、『扉の国のチコ』も出版されました。
扉はデュシャンと瀧口さんの共有していたオブジェで、入口であり出口でありどこかへ続いているところです。
ステッキの老人とチコの関係、チコの旅のものがたり。誰もがチコになれる!
瀧口さんの「遺言」が引用された最後のシーン、はるか彼方までつづく青空の、みんなが立っているのはおそらく瀧口さんの書斎の床。
もう扉も壁もなく、ここにいるみんなすべてにつながっている……泣きました。 
 
気づけば、★先生もステッキをついています。
長い長い旅をして、数えきれないひと、オブジェ、ことば、時間、空間、をつなげて
わたしたちを旅の過程においています。これから出会うひとたちまでも!
この講演も、わたしたちひとりひとりに語りかけながら、かつみんなで旅をしていました。
そう、★先生からの贈り物だったのです!(okj)