森と教会

(5月15日のOKJレポートにこのような書きこみがよせられましたので紹介します)

出版記念講演についての報告、要約は不可能とのことですが、森のチャペルとステンドグラスのおはなしから、何十年来のなぞが、ひとつ解けました。

昔ニュージーランドで、なにも観光名所のない町で何ヶ月も過ごしたことがありました。

クリスマスもまぢかなある朝、近所を散策していると、木立と芝草だけの公園?がありました。

その芝草の朝露に木漏れ日がさして、見渡すかぎりキラキラ、キラキラ...

ニュージーランドの北島でみた最もうつくしい光景でした。

そのとき、西脇順三郎の"覆された宝石”の詩が浮かんできました。

私の記憶では、そこは薄暗い教会のなかで、朝日がステンドグラスの窓からさしこんでいて、光が散りばめられた宝石のような模様を描いているというものでした。

実は西脇順三郎の詩集は、去年から欲しいもののリストに入っていたのですが、先月注文したばかりでまだ届いていなかったので、今朝インターネットでさがしたところ、たった三行の詩で、教会ともステンドグラスとも書いてありません。でも、この詩は"戸口”がなかったら、ケルト人の森とも置き換えられるし、ニュージーランドの木立と芝草にもつながっている...

そうすると、”自然と教会”が"森と教会”になり、森のチャペル、ケルト人もゲルマン人も、沖縄の森も、シュルレアリスムもみんなつながってきます。

あの詩を書いたとき、西脇氏のこころのなかでは神のやどる森そのものと、それを模倣した教会とが重なり合っていたのかもしれません。 (ブリス)